心と向き合う本当の意味|流山市南流山かとう治療室

心と向き合う本当の意味|流山市南流山かとう治療室

日本人は心と向き合うのが苦手?

あくまで傾向ですが、心のケアやメンタルの問題を扱うのが苦手な方が多いです。

だから薬や身体の治療に依存しがちになるんだとも思ってます。
心のせいにされちゃうと自分を否定されたような気持ちになる、傷つくかもしれない。
それなら身体にフォーカスを向けた方が楽ですよね。

そうして、昔言われていたストレス病の代表格は「胃潰瘍・十二指腸潰瘍」でした。
心配で胃がキリキリ、、、ストレスで胃に穴が開きそう、心配性で胃腸が弱いやまね君は有名ですね。

胃腸病もやがて外的なストレスだけでなく、心の問題もあると認知され始めると徐々に患者数は減少し、「肩こり」「腰痛」という運動器疾患にすり替わっていきました。

それくらい、私たちは心の取り扱い方がへたくそです(笑)

腰痛の90%以上は原因不明です。
原因が不明なので湿布や薬しか整形外科では出せないのですが、ストレスが関係しているのは明らかになっていて、そのようなアプローチをするところは日本ではまだまだ少ない。

身体のシステムを良くも悪くも変える要素

実際は身体も心もつながっているので、どちらかだけよくなっても一方が何も変わらなければ元に戻ってしまいます。

物理学では、目に見えないものが実際の目に見えるものをつくると考えます。

したがって身体という見えるものは、その体を取り扱う人の心や思考という「意識」の結果。
「意識が変われば変わる」なんて言い方がありますがその通りなんです。

例えば、
芸術家さんの作品(見えるもの/結果)は、作家さんの思い(見えないもの/意識)の表れです。
おいしいお料理(見えるもの/結果)は、つくる人の思い(見えないもの/意識)の表れ。
同じ料理でも、心がこもった料理とそうでないものの違いは私たちもなんとなく感じることがありますよね。

症状や病気は結果です。すると「見えないもの」には、
その人の気持ち、思い、信念、意識(無意識も)が含まれているのです。

どこに行っても治療の成果が出ないという場合は、いったん身体にこだわるのをやめてもっと広い範囲に目を向けてみることをおすすめします。

見えない内面に向き合うのはなんだか抵抗を感じるとき、
もしかしたらそれによって「自分を評価される」「善悪の判断をされる」と思っているからかもしれません。

過去や内面は見たくないのは、すでに自分で過去や内面を否定しているのではないでしょうか。

わたしがそうだったのでよくわかりますが、様々な勉強や経験を経ての持論を今回は書くことにします。
これにより、心が軽くなる人がひとりでもいたら幸いです。

症状や病気は「身体からのメッセージ」

「病は気から」と言いますが、本来の意味は伝統医学に基づいた「気・血・水」の「気」のこと。

鍼灸では鍼やお灸を利用して、「気」の循環に支障が及んでいるツボや経絡を開通して本来の健康な状態に戻すことを目的にしています。

「気」は身体に傷を負っても流れを妨げるもので、手術は極力しない方がいいという東洋医学の考えは気の流れを重視しているからです。

気・血・水のうち、目に見えないものは「気」
目に見えないものが見えるものをつくるという法則に則ると、気が滞ると血流もリンパ(体液)の循環も滞るから、気の巡りを改善することを重んじているのです。

「病は気から」の本当の意味は、気の循環が病むです。
病むとは、気の不足、過剰、滞り。

気持ちの「気」でもある

同じ「気」という漢字が使われているのにも理由はありそうです。

病気になってしまったとしても楽観的な人や悲観的な人がいるように、どんな気持ちでいるかで予後や回復の度合いは変わります。

気丈にふるまうのとはちょっと違います。

病気は病人の治療とセット。

抑圧はエネルギーを消耗させて慢性疲労の原因になる

過去や何かの感情にフタをする。なかったことにしたい。
気丈にふるまうのも含めて、そのようなことが多いほど抑え込むのに気を消耗させています。

そうして出た身体のトラブルは、身体の補修をすると一時的に楽にはなりますが、気を消耗する原因が変わらないのでまた時間が経つと再発します。

身体の治療だけでうまくいかないときの原因は身体しか見ていないから。

心も楽になれば気を消耗しなくなるのでカラダもおのずと健康になります。

心労、心配、気疲れ、気苦労、、
気をどこかに配りすぎると疲れてしまうんです。

身体はほんとうの自分と再びつながることを求めている

はらわたが煮えくり返る
膝が笑う
膝を曲げない
断腸の思い
頭に血が上る
腰が抜ける
肩の荷が下りる
腑に落ちる
気が重い

このように日本語には身体と感情がつながっている表現がたくさんあります。
昔の人は自分の身体で感情も味わっていたし、気の取り扱いも自覚していたのです。

評価や判断なく、ただ身体が教えてくれる自分の心というのをよく感じていたんだと思います。

そのような身体の感覚を感じる力が、近年の左脳的教育、知識重視の教育によってカラダと頭や心が切り離されてしてしまいました。

・お腹がすいたから食べるではなく、12時になったから食べる。
・好きではないけど、身体にいいと聞いたから食べる。
・姿勢が悪いから身体がゆがみ、腰が痛くなる。
・気は見えないから怪しい。

のように。
ですが、同じように長時間悪い姿勢で座りっぱなしでも全然平気な人もいます。

同じ行動をしてても、どのような気持ちでそれをやっているかはみんな違うから結果が違うのです。

身体は心理学

はらわたが煮えくり返る:消化しきれないことが怒りとして逆上してくること
膝が笑う:恐れによって踏ん張る力(意志力)を損ねていること
膝を曲げない:意志力が頑固になっていること
断腸の思い:腸がねじ切れるくらい考えたこと、切腹する覚悟のある思い
頭に血が上る:怒りに関する肝臓の血が上にのぼってしまうこと
腰が抜ける:恐れに関する腎臓の気が抜けてしまうこと
肩の荷が下りる:担ぐ場所である方が表現する「責任」がおりること
腑に落ちる:腸で消化吸収できること
気が重い:気持ちが重い、行動する気になれない
※あくまで一例です

症状が現れるところにはこのような身体のメッセージが隠されています。

人はみんな個性があるので同じ生き方や同じ価値観でいるのは不自然。
他人の価値観も尊重しつつ自分の気持ちも尊重するバランスを見出すことで人生が豊かになったり自分らしく生きることができます。

大病の経験が人生の転機になるのは、身体や心の取り扱い方が大きく変わるからです。

人のために自分の心を押し殺して生きるのが「善」という呪い

ところが、「右向け右」がよしとされる日本。

人のために頑張れるのは日本人のすばらしいところだと思いますが、バランスが偏っているために自分が犠牲になりすぎて身体が「自分を大切にしなさい」と怒ることだってあると思いませんか?

そんなこと思ってはいけない。
空気を読まなきゃいけない。
優しくしなければいけない。
親切にしなければいけない。
~しなければいけない。

これもバランスで、いつもそうしなければならないと凝り固まると「気」も病む。

人生の主役は自分。時に自分の気持ちを優先にすべき時があります。
他人の人生と調和をとる必要はあっても、他人に振り回される必要はありません。

捧げたところで人生の幸福を保障してくれるわけでもない誰かの期待に応えるために、私たちは自分の身体や精神に鞭を打って生きていました。

身体が言うことを聞かないといって病院に駆け込みます。
明日終わるかもしれない関係を優先して、火葬場まで一緒の身体の言うことはいつも後回しか聞こえないふりです。

それだけ頑張っても相応の見返りや結果がなかったとき、怒りを感じたりがっかりしたり。

病気の原因はストレス。
つまり治療は、ほんとうの自分ともう一度つながること。
自分の取り扱い方を工夫すること。
薬は一時的には功を奏しますが根本的ではありません。

ほんとうの心のケア

今の心が いい/悪い と判断したり評価するでもない。
心を正すというのは性格を修正することや性格を否定することではない。
もちろん、目に見えない心を目に見える薬で(ごまかせても)治せるはずもない。

身体を通じて自分の気持ちともつながる。
自分に正直になる。
ほんとうの自分に合わない生き方を知る。
気が付かなかった一面に気づく。

そのために過去や内面の自分とつながる。そんな風に考えています。
変えられない過去の自分や感情を認めて理解するプロセス。

癒すという言葉は個人的にあまり好きではないので使いません。

この人間関係や人生の荒波に一生懸命もまれても、自分としっかりつながり舵は放さないこと。
舵は目に見えますが、それをどう動かすかは目に見えない人の意識です。

執筆者

かとう治療室

流山市南流山で整体・鍼灸(女性鍼灸師)・内臓調整を中心に総合サポートをしています。ボディートーク、エムレス等。つくばエクスプレス/JR武蔵野線 南流山駅より徒歩6分。駐車場2台分あり。不定休・完全予約制。お問い合わせはLINEかフォームが便利です。お電話の場合は留守電にお名前とメッセージを残してくださると折り返しご連絡いたします。

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